カステッロ・モンテ・アクートとトーレス最後の王妃

モンテアクート サルデーニャの遺跡

オルビアからサッサリへ行く道、ブドウ畑を横目に見ながら、モンティを過ぎ、コルク樫の木々やブドウ畑の続く、なだらかな丘陵地帯に2つの尖った奇妙な形の小高い山、モンテアクートが見える。
モンテは山、アクートは尖ったいう意味で、見かけの通り、尖った山のモンテ・アクートのてっぺんには、わずかに壁の一部が残っているだけだが、中世の城跡がある。
ちょっとしたトレッキンングコースでもあり、頂上は、尖っている岩に張り付いていないと危険だが、360度ぐるりと見渡せる。
確かに、見張るのには最適な場所。
中世の城跡だけではない。それ以前の先史時代に遡る、メンヒルやドルメンもある。小さな山ではあるが、その位置、形状から長い歴史が詰まっている。

モンテアクート

しかし、道には、モンテアクートの看板はあるが、全く手入れや観光地化がされておらず、しかも、閉まっている門まであって、地元の人でも、名前は知っているけど良くは知らなく行きにくい。
観光地化するためにはお金がかかるので、歴史が詰まった絶景ポイントであっても、知られていない所、そんな場所がサルデーニャには、たくさんある。

途中には、謎の石もある。
サルデーニャの方言で、書かれた石という意味のサ・ペドラ・イスクリッタ Sa Pedra Iscritta (イタリア語にすると、ラ・ピエトラ・スクリッタ la pietra scritta)
36個の不思議な幾何学模様が書かれた石。

ラピエトラスクリッタ

この石に何が書かれた内容には2つの説がある。
説1) およそ3千年前のヌラーゲ時代に、宗教儀式のためにこの石が用いられたのではないか。
なぜかというと、奉納のためのアンフォラの破片が見つかったから。そして、すぐそばに、聖なる井戸とみられる井戸があることから。
説2) 地形図で、各所有地の境界線を表している。

途中にある、メンヒル menhir : 地中海地域に数多く存在する、地表に突き刺すように立っている石。ヌラーゲ時代に宗教儀式に用いられたとされる。

このメンヒルは、なんと真北を向いている。

オリーブ、チスト、樫、レンティスコ(ニュウコウジュ)などの木々が茂る中、ドルメンもある。
ドルメンは、2つの地面に対して直立した大きな石の上に、蓋をするように、大きな石がかぶさる。
こちらのドルメンの蓋の部分は二つに割れている。雷が落ちて、割れたと考えられている。

ドルメンサルデーニャ
ドルメン

1994年の発掘で、このドルメンの中からは、土器や骨、紀元前3200年から紀元前2800年のサルデーニャの最初の文化、サン・ミケーレ・ディ・オツィエリ文化のテラコッタの皿が出てきた。
5千年も前に、こんな場所に人が住んでいた跡が残っている。

そして、この中世の城の名前のついた、ワイナリー、カステッロ・モンテ・アクート Castello Monte Acuto のヴェルメンティーノは、私の中では、サルデーニャのヴェルメンティーノ・ディ・ガッルーラDOCGのBEST10に入るワイン。

ヴェルメンティーノガッルーラサルデーニャ

ワイナリーも、同名の山と同じように、あまり知られていないカンティーナだけれども、とてもおいしいヴェルメンティーノを作る。
白ワインのヴェルメンティーノだけではなく、赤ワインも高レベル。

カステッロ・モンテ・アクートとトーレスの最後の王妃、アデラシアについて

1207年生まれと推定される アデラシア・ディ・トーレス Adelasia di Torres。
この時代は、サルデーニャは、4つのジューディカートと呼ばれる王国(カリアリ、トーレス、アロボレア、ガッルーラ)に分かれていました。

ジューディカーティ
4つのジューディカーティ

Francesco Cesare Casula著 SINTESI DI STORIA SARDO ITALIANA より


アデラシアは、その4つのジューディカートの一つ、トーレスのジューディチェ(王様)の娘として生まれました。

カステッロモンテアクートの最初の記録は13世紀に遡ります。
1237年4月14日、トーレス王妃、アデラシアとガッルーラ王、ウバルド・ヴィスコンティから教皇座へ城が譲られ、城塞の鍵が、教皇代理使節アレッサンドロ司祭へ渡されたという記録が残されています。
それ以前の記録は残されていないのですが、城塞は以前にあった、石を使い、11世紀に建てられたとされています。
以前というのは、およそ3000年前のヌラーゲ時代または、およそ2000年前のローマ時代のもの。
360度見渡せる場所柄、敵を見張るためには、ぴったりな所なのです。

モンテアクート
モンテアクートの城跡からの眺め

でも、かなり急などがった山のてっぺん。どうやって、石を運び、砦を建てたのかと思います。

1218年、まだ12歳のアデラシアは、ガッルーラ王国の王、ランベルト・ヴィスコンティの息子で同い年のウバルド・ヴィスコンティと結婚します。
豪華な結婚式は、サッカルジャ教会で挙げられました。

サッカルジャ教会
サッカルジャ教会

もちろん政略結婚。
トスカーナのピサ共和国のヴィスコンティ家は、またの名をガッルーラのヴィスコンティ家として知られていました。
ピサ共和国の勢力が強く、そうでもしないと、ト-レスは、全てをピサ共和国に取られてしまいそうだったからです。

1225年、ウバルドの父親が亡くなり、ウバルドがガッルーラ王国のジューディチェ(王)となります。
1232年には、アデラシアの父で、トーレス王国のジューディチェ(王様)マリアーノがなくなり、まだ10歳のバリソーネ3世が王位を継承しますが、数年後に殺されてしまいます。
男子は一人だけだったため、残された二人の姉妹のうち、アデラシアが女王に選ばれました。
とはいうものの、1200年代に女性が一人で政権を司るのは不可能なこととされており、アデラシアの夫のウバルドが実権を握り、そのため、サルデーニャ島内でのピサ共和国とヴィスコンティ家の勢力はとても強いものとなりました。

しかし、1238年、31歳の若さでウバルドは高熱にかかり亡くなります。
ウバルドは亡くなる1年前に、従弟のジョヴァンニ・ヴィスコンティがガッルーラ王国の王位を継ぐように書きましたが、トーレス王国には言及していませんでした。

アデラシアは、その後、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の非嫡出子で18才の若いエンツォと再婚します。この時、アデラシアは32才。
エンツォのの父、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、サルデーニャ島でサルデーニャ王国のようなものをつくりたく、エンツォとアデラシアを結婚させることにより、それぞれにサルデーニャ王とサルデーニャ王妃の称号を与えました。
アデラシアとエンツォの結婚式は、アルダラのサンタマリア・デル・レーニョ王宮教会 chiesa palatina di Santa Maria del Regno で行われました。

アルダラ サンタマリアデルレーニョ教会
アルダラのサンタマリア・デル・レーニョ王宮教会 内部

教会内部には、火山岩を用いられた灰色の薄暗い外観からは想像がつかないような、すばらしい レタブロ retablo がある。
高さは12メートルあり、サルデーニャで最も大きなレタブロ。
このアルダラのサンタマリアデルレーニョ教会の隣に、王宮があったが、今は、ほんの少し壁が残っているだけ。

エンツォは、父親に呼ばれ結婚して1年後の1239年には、サルデーニャ島を離れますが、1249年にはボローニャの教皇党員に捕らえられ、亡くなるまでボローニャで幽閉生活を送ります。
1246年にアデラシアとの結婚が破棄された後も、エンツォは、終生、ガッルーラ王の地位を名乗りました。

アデラシアの晩年は、寂しく孤独だったといいます。
アルダラの王宮はエンツォの代理人に見張られていたため、ブルゴスの城へ引きこもり最後の数年を過ごしました。
子供がいなかったため、1259年にアデラシアが亡くなると、トーレス王国も終わりを告げました。

トレッキングは、2-3時間ほどで終わるので、そのあとは、田舎の家でランチ。

サルデーニャカキ
コッツッエ

この日は、アルツァケーナの料理を教える高校の先生でもありシェフでもある人が、魚料理を作ってくれた。
トレッキングは、ちょっとした言い訳で、その後の長い昼食がメインな方々。
昼食の前にも、山の上で、サラミやチーズの”おやつ”をしたツワモノたち。
飲んで食べまくります。

歩くことが大好き、通常の観光ルートにはない場所に行きたいという方、お問い合わせください!アレンジいたします。

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