ナイフで有名なサルデーニャのパターダ村

サルデーニャナイフ イタリア・サルデーニャ島

サルデーニャ島には、いくつかのナイフで有名な村がある。パターダ村はその一つ。

ピクニックや誰かの家のテラスなど、屋外で大勢で食事をするとき、サラミやチーズのかたまりが出てくると、さっとポケットかどこから、愛着のある自慢のサルデーニャのナイフを取り出し、みんなに切り分けてくれる人が必ず一人か二人はいる。その慣れた手つきと、サルデーニャ島のナイフの組み合わせ、かっこいいなあと思う。いつか私も、と思っていたので、パターダ村にあるというナイフ博物館にはとても興味があった。

パターダ村は、標高800メートルから900メートル。サッサリ県では最も標高の高い場所にあるコムーネ(地方自治体の最小単位)。冬の寒さは厳しく、雪も降る。人口はおよそ3千人。人里離れた村へたどり着くためには、オルビア-サッサリを結ぶ幹線道路を降りてから、カーブの続く坂道を何十キロも上らなければならない。家からは、50kmほどとそんなに遠くないのだが、通り過ぎたことはあったものの訪れたことのない村であった。

しかし、訪れた村の小さなチェントロストリコには、意外にも1800年代の終わりから1900年代初めの瀟洒な建物もあり、歴史ある村であると感じさせる。

そのパターダ村から5kmほど離れた、レルノ湖へ散策に行く。牛が静かに草をはむのどかな景色を眺めながらの散策。どこまでも、どこまでも静かである。

サルデーニャ島の湖

サルデーニャ レルノ湖

もともと、レルノ山を源とするの川があり1980年代にダム湖となったのだが、なんと、そのダム湖のほとりには、3500年前のヌラーゲがある。そしてそのヌラーゲに隣接して、中世の教会があったのだが、今は壁がわずかに残っているのみ。ヌラーゲの方は、中に降りることもできる。また、このあたりには、ヌラーゲ時代には、大きなヴィラッジョがあったと推測されている。

ヌラーゲ・レルノ Nuraghe Lerno

ヌラーゲ内部へ降りて上を見上げる

ヌラーゲから教会跡を見下ろす

標高が高い所だから寒いだろうと厚着をしてきたが、風もなく上着がいらないほど、穏やかな3月の初めだった。

ダム湖畔を1時間半ほど歩いた後、レルノ湖を見下ろす場所にあるアグリツーリズモで、この辺りの手作りパスタ、ペリッツァス pellizzas を食べた。個人的には、ちょっと生地が分厚すぎるパスタではあるが、手作り感満載の素朴なパスタ。

pellizzas
pellizzas

サルデーニャのデザートといえば、セアダス。こちらのセアダスは、しっかりした味のチーズが詰まっていた。セアダスとは、チーズが中に入ったおおきなラビオリ状の生地を揚げ、ハチミツをかけるまたは、ハチミツにくぐらせていただくデザート。今ははちみつがかかっていて甘いので、デザートという位置づけだが、ハチミツをかけなければ甘くないので、昔の貧しい時代は、セアダス2つが、ランチみたいに食事として食べられたという話も聞いた。揚げ物であるし、チーズが入っているのでボリュームがある。

セアダス

昼食後、パターダ村の中心にあるナイフ博物館へ行く。博物館は、リバティ様式の趣のある建物。

サルデーニャナイフ博物館
ナイフ博物館


パターダの折り畳み式ナイフは、1800年代後半からつくられ、刃がミルトの葉の形 “a foza ‘e multa” であるのが特徴。刃の長さは使用目的によって様々だが、通常は12cmくらい。
もう少し前のモデルは、折り畳み式ではないナイフで “Corrina ezza” として知られ、1700年代の終わりから用いられていた。折り畳み式ナイフでは、”Corrina chi tancada” と呼ばれ1800年代前半に使われていた。
ほかのタイプのナイフとしては、ベルトにつけることができる “Leppa ‘e chintu” と呼ばれるもので、1600年代から1700年代にはサルデーニャ島中で普及していた。

サルデーニャナイフ

サルデーニャナイフ博物館

パターダ村のナイフは世界的に有名で、コレクターも多い。全て手作業。メイド・イン・サルデーニャ。ナイフの柄は、雄羊の角が用いられることが多いが、ムフロンの角なども使われる。鋲には真鍮や、金が用いられることも。お値段は数百ユーロから、とかなり高額だが、ひとつひとつ素材によって違い、熟練の手作業で作られたナイフは、うっとりとするような芸術作品。

サルデーニャ島ナイフ

サルデーニャ島には、パターダのほかに、サントゥ・ルッスルジュやアルブス、グスピニなどのいくつかのナイフの生産で有名な町がある。

ロザリオ教会
1500年代い遡るロザリオ教会は、昔はサン・サルヴァトーレに奉献された教会だった。教会内部にある紋章から、数世紀にわたってモンテ・アクート地域を統治していた、Centelles家が教会建設を支援した。1700年代にドメニコ会の修道士たちがロザリオの祈りを用いて聖母マリア信仰を広めるため、サン・サルヴァトーレ教会からロザリオへ教会へと名を変えた。
以前の鐘楼は円筒形であったが、雷により崩れたため、現在の形となった。

ロザリオ教会
ロザリオ教会
パターダ

タイトルとURLをコピーしました