サルデーニャの日 Sa Die de sa Sardigna

サルデーニャ旗 イタリア・サルデーニャ島

4月28日は、サ・ディエ・デ・サ・サルディーニャ Sa Die de sa Sardigna, つまり、サルデーニャの日。
サルデーニャだけで祝われるサルデーニャ島の日。学校もお休みとなります。
なぜ、4月28日がサルデーニャの日になったのかというと・・・

話は200年以上前の1794年に遡ります。
この時代、ヨーロッパの多くの国や町で革命が起こりました。
ルイ16世が処刑されたフランス革命が有名ですよね。

1720年、およそ400年間に渡り、サルデーニャを支配してきたスペインに代わって、サルデーニャ島は、ピエモンテのサヴォイア家の手にわたります。
サルデーニャ王国という名前ですが、紛らわしいことにサルデーニャ王国の首都はサルデーニャ島にはなく、ピエモンテのトリノにあったのです。
そして、サヴォイア家は、サルデーニャを植民地のように扱い、サルデーニャの人々の権利などに気を配らなかったのです。

そして、1794年4月28日、サルデーニャ島のサルデーニャ人は、この時代にサルデーニャで権力を握っていたたヴィチェレ(副王)やピエモンテの官僚たちに対して反乱を起こしたのです。

カリアリのカステッロ地区にある パラッツォ・レジョ Palazzo Regio または、ヴィチェレジョ Viceregio は、副王の住居だった場所。1799年から1815年には、ナポレオンの攻撃のため、歴代サルデーニャ王国国王もこちらに住んでいました。

カリアリ 副王
パラッツォ・レジョ

サルデーニャ人は、副王ににサルデーニャ人を政治的、軍事的に重要な任務を任せてくれることとサルデーニャの地方の指導者の自治権を頼んだのですが、ピエモンテの人々は、サルデーニャの人々の社会的、経済的、政治的な問題を解決しようとはしませんでした。

1793年に、フランスの艦隊を撃退したあと、サルデーニャの人々は、政治的、軍事的にもっと重要な任務を持てると思ったのに、国王はそれをはねつけました。
不満をつのらせたサルデーニャの人々は、ついに、1794年4月28日、ヴィチェレ(副王)の Vincenzo Balbiano とピエモンテの人々をカリアリのカステッロ地区から追い出し、船に乗せてピエモンテへ追い返したのです。
この反乱には、サルデーニャの貴族から農民まで、社会的階級に関係なく参加しました。

つまり、サルデーニャの日、サ・ディエ・デ・サ・サルディーニャ Sa Die de sa Sardigna は、サルデーニャ人が、自由のために闘った日。サルデーニャの人々がよりよい生活を求めて一つになった日なのです。

象の塔 カリアリ
象の塔。カリアリのカステッロ地区への入り口の一つ。
タイトルとURLをコピーしました