サルデーニャは島は、そのあまりにも美しいビーチを求めるヨーロッパの人々の夏の海のバカンス地として有名なため、海 = おいしい魚、と誰もが考えるかもしれないが、古くは、海の近く = 海賊に襲われやすい、ということから、サルデーニャ人は、海の近くではなく内陸に居住していました。そのため、魚介類を食する文化が歴史的にはあまりなく、どちらかというと、肉、肉、肉なのです。サルデーニャのお肉は本当においしいです。
しかし、サルデーニャ島北東部の町、オルビアは、町の名物としてムール貝を挙げています。
オルビアのムール貝の歴史は、ちょうど100年を超えたばかり。1918年にリグーリア出身の二人の兄弟が最初のムール貝養殖の設備を設置したのが始まり。というのも、このゴダー二兄弟はもともとムール貝の生産者で、オルビアを訪れたときにリグーリアよりもムール貝の生産に適しているとすぐに見抜いたのです。
そして始めたばかりの頃は、オルビアで採れたムール貝のほとんどはイタリア本土へ送られていました。つまりサルデーニャの人々にとってムール貝は未知の食べ物だったのです。しかし、カリアリとサッサリの商人がサルデーニャ島の人々にオルビアのムール貝を売り歩き、次第にサルデーニャの人々もムール貝を食するようになる。だが、ゴダー二兄弟は、1919年にマラリアに罹り、オルビアでのムール貝生産をやめてしまう。
ちょうどその頃、1899年にオルビアで生まれたラファエーレ・ビジは、戦争のため1917年にヴェネチア・ジュリア州へ行き、そのままトリエステのムール貝生産者のもとで働き始める。このラファエーレ・ビジは、現在のオルビア貝類協会会長のラファエーレ・ビジの祖父。(イタリア人は、お父さんやおじいさんと同じ名前を子供につける場合も結構あるので、同性同名でややこしいいがビジ家は3代続いているムール貝生産者。)そして、1920年にサルデーニャ島へ戻ってきたラファエーレ・ビジは、ゴダー二兄弟が残していった設備を使ってムール貝の生産を始める。
第二次世界大戦中の1943年の爆撃で、ムール貝の設備は被害を受け、1945年までムール貝生産は一時中断したものの戦後に再開。次第にムール貝に従事する人も多くなり、収穫量も増えていった。現在、オルビア貝類協会に属する会社は18社。
その中の一人、マリーノ・アンジェロ―二氏が先日、彼の牡蠣養殖場をボートで案内してくれた。マリアーノは、ムール貝やアサリも採るが、牡蠣の養殖をオルビアで始めたパイオニアなのです。
最近でこそ、中国人の経営する寿司屋がイタリア中のあちらこちらにできて、特に若い人を中心に中国人の寿司屋に行くのは、割と日常化している。というのも、中国人の経営する寿司屋は一定料金で食べ放題というのがふつう。そのため、質より量の若者たちが、みんなでワイワイと食べに行くのに適しているのです。
そのようなこともあり、Sushiを知らないイタリア人はほとんどいませんが、でも魚を生で食べることを嫌うイタリア人は多い。しかし、牡蠣は別。生牡蠣が好きなイタリア人はたくさんいます。サルデーニャ島でも、いくつか牡蠣を養殖している場所があります。サルデーニャ産の牡蠣もとてもおいしいです。
ムール貝がメインのオルビア湾で、牡蠣の養殖を始めたマリーノ。彼の養殖方法は、ニュージーランド方式。カゴをひっくり返さなければならないので、手間がかかるが、勉強熱心で、仕事に対する愛情と情熱が言葉の端々から感じられました。
今は、魚屋に卸しているだけなので、自分の牡蠣販売所と牡蠣バーを持つのが夢とオルビアの空を見上げながらつぶやいていました。
カゴから牡蠣をとって海水で洗って殻をナイフで割って、みんなに牡蠣を振舞ってくれた。友人が持ってきたスプマンテで乾杯。まさにとりたての牡蠣。お味は苦みがなく抜群のおいしさ。
ところで、サルデーニャ産の牡蠣は、夏に食べることができます。日本ですと牡蠣のシーズンは秋冬なので大丈夫かなあと思っていたのですが、海辺のレストランは夏にのみオープンのところも多いですし、夏のバカンスシーズンに合わせて牡蠣を育てています。
マテ貝 Cannolicchio を採るところも見せてくれました。青い筒状のものが水中メガネになっていて、海中をそれで覗き込みながら長い棒でつっついて採ります。ツンツンツンとつっついて、ささっと5~6個のマテ貝が棒に突き刺さり、みんなびっくり!
アサリは、ザルのついた熊手のようなものでとります。
ワインの栓抜きをボートに持っていくのを忘れていたので、陸地に戻ってからカンティーナ・ムラーレスのヴェルメンティーノ・ディ・ガッルーラDOCGで、また乾杯。華やかな力強い香りとミネラル感たっぷりで牡蠣とも相性は抜群でした。